ストリート日本画の考察

untitled (Tule Lake collage)

こちらでは、「トゥーリーレイク―記憶の風景」セクションに出品されている次の作品について、彼の親しい友人でありドキュメンタリー制作者でもあったリンダ・ハッテンドーフとマサ・ヨシカワ、ならびに本展担当キュレーターの金子牧が共同で執筆した解説文をお読みいただけます。これらは展覧会図録より転載したもので、図録にはミリキタニの作品に関するさらに多くのエッセイや論考が収められています。

Collage with heavy strokes of green and red on the left, and dried leaves, grass, and photographs in the center against a multi-colored background

Jimmy Tsutomu Mirikitani, untitled (Tule Lake collage), after 2002, Museum purchase: R. Charles and Mary Margaret Clevenger Art Acquisition Fund, 2020.0219

untitled (Tule Lake)

ハッテンドーフ

小さなウサギが、荒々しく入り乱れた画面の中を跳ねています。そこには、絵の具や種子、切り抜き、そして砂漠の暑さのなかで急いでつかみとられた一握りの乾いた草が散りばめられています。草の上では子どもが眠っています。広島で過ごした幼少期の象徴として、宮島にある有名な神社の赤い鳥居がひときわ高く誇らしげに立ち、蜃気楼のようにきらめいています。儚く、壊れやすく、色の渦のなかにほとんど溶け込み、今にも失われてしまいそうな光景です。そこには、私と私の飼い猫、さらにはジミー自身の姿も含まれています。第二次世界大戦中に不当に収容されて命を落とした人々の追悼式典で厳かに立っている彼の姿は、色褪せた白黒の記録史料である新聞紙面の記憶として示されています。これはジミーが60年後にトゥーリーレイク強制収容所の跡地を再訪し、かつて有刺鉄線に囲まれた中で歩いていた草むらを、自ら再び歩いた後に生み出された作品です。

ヨシカワ

ジミーは出かけると、小石や松ぼっくりなどの木の実、木片や落ち葉などを拾うのが大好きでした。気に入ったものを見つけると、自分のポケットに入れたり、リンダに手渡して持ち帰ってもらったりしました。そのいくつかは後に作品になったり、作品の一部として使われました。 

ジミーはまた、折に触れて収容体験を語っていました。
「仮収容所では姉さんも一緒だった。食堂はペンキを塗り直したばかりだったけど、もともとは馬や牛の厩舎だった。あの臭いがどうしても耐えられない。嫌で嫌でたまらなかった。あんな場所にはいられん。夏に10人がトゥーリーレイクへ行くという話を聞いて、わしはすぐに志願した。自分からトゥーリーレイクへ行くと言ったんだ。姉さんに『わしはトゥーリーレイクへ行くよ』と告げて、そして別れた。それが姉さんに会った最後だった。もう50年会っていない。」

「トゥーリーレイクは、つらい記憶ばかりだ。すべて覚えている。亡くなった人たちの顔もはっきり覚えている。」 

キュレーターによるコメント

この作品に初めて出会ったときの衝撃を、私は今でもはっきりと覚えています。作品はかなり傷んでおり、さらにトゥーリーレイクを主題とするミリキタニの他の作品とは違い、その主題は一目では判然としませんでした。ハッテンドーフによれば、本作は2002年のトゥーリーレイク巡礼の際、現地で制作されたものだといいます。それは、ミリキタニにとって約50年ぶりとなる訪問でした。もっとも、いくつかの写真は現地ではなく後に加えられた可能性もあります。 

ミリキタニのトゥーリーレイク作品の多くには、特定の構図やモチーフが繰り返し用いられますが、本作はその点で際立って異なっており、表現は大きく抽象化されています。素早い筆致による赤、緑、黄色の線が重なり合い、その上に、現地で拾い集めた乾いた葉や、ハッテンドーフそしてミリキタニ本人の写真などが、貼り込まれています。この作品は、簡単に解釈されることを拒んでいるかのようです。しかし、その理解しがたさにもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに、私はこの作品に強く心を打たれました。ミリキタニがトゥーリーレイクに再び立ったその瞬間に抱いた感情を、きわめて「真正」なかたちで記録したもののように思われたのです。 

マルセル・プルーストは次のように書いています。「過去とは、知性の及ばぬ領域の外、ある物質的な対象のなかに――その対象が私たちにもたらす感覚のなかに――ひそかに隠されているものであり、私たちはそれに気づいていない。」私の考えでは、本作はまさにそのような瞬間を捉えています。それは、完全に忘れ去られていた過去ではなく、ミリキタニの内に常に在り続け、トゥーリーレイクを再訪した際に、新たな衝撃とともに呼び起こされた過去です。再びその場所に立ち、風景を目にし、葉を拾う——そうした身体的な行為が感覚の激流を呼び起こしたのでしょう。ミリキタニは芸術家として、その感覚を筆致へと変換し、とどめなく蘇る記憶のありようを、紙の上に留めようとした。そんなふうに、私には思われます。